この花はきらい

 秋海棠が咲いていたころ、園芸好きの老女が庭仕事をしていた。用があって呼びにいった20代のわたしが

「三色菫は植えないのですか」

と何気に尋ねた。

「三色菫は嫌いです」

きっぱりと言われた。

今ならビオラと呼ばれ、ここかしこに咲いている花だ。

びっくりした。ある花を嫌いという言葉を初めて聞いた。

犬嫌い、猫嫌い、こども嫌い、人それぞれ嫌いなものがある。好きなものは言えても、必要ないかぎり嫌いなものは言わない。

 

友人に薔薇好きがいる。外苑や深大寺植物園の薔薇を一緒に見に行った。咲き誇る名のついた薔薇に友人は感激していた。口には出さなかったが、わたし、薔薇は気取っていてきらいと思った。

やまんば怒る

 山の中、風の音、小鳥のさえずり、夜、獣の動き回る音、そんな住まいに居る訳ではない。都下だから高いビルに囲まれてはいないけれど、心の狭いやまんばの怒りを誘うものがある。

 まず政治家のポスター、妙な薄笑い、お前たちの顔はどうでもいいのに、やたらベタベタ、選挙制度のなすわざか、顔で一票はいれない。

 次にたまに都心に出ると、モニターに音楽、やたらうるさい。がんがんと耳を襲う。電車を降りたとたんにある。避けることはできず、慣れることはできない。だから新宿は嫌い。

そして、コロナ下、電車内はみなマスクをしている。でもおばちゃんたちのおしゃべりは、止まらない。前に立ったふたり、そのうちの一人、嫁さんが不妊治療をしないことを延々とこぼす。そんな話は聞きたくない。周りに人がいることを一切気にしていない。

やまんばは心の中で怒りを爆発させる。

 

 

やまんばのうた

 

 コロナ下、うたを聞く機会が増えた。ペドロアンドカプリシャスの『別れの朝』若いときには化粧の濃い女性歌手がセンターで歌っている、という感じだったのだが、調べると彼女前野曜子の写真があって、宝塚時代の清楚な映像もあった。若くして、病いで亡くなった彼女の歌を聞いた。彼女の歌から角川映画の大出費映画『復活の日』も知った。

 聞いた歌、すべてがうまい。彼女の声がいい。亡くなって30年以上だが、ずっと残っていく歌声だとおもう。

 そして、ゴールデンカップスの『長い髪の少女』高校時代ルイズルイス加部のファンの同級生がいて、授業を抜け出してコンサートに行き、ひと騒動あった。そんなことから知っていた。GS世代だが、好きな曲はあっても。応援するグループはなかった。

 今回、マモル・マヌーの死亡報道で聞いてみた。彼の声もいい。歌詞はセンチメンタルでたいした内容でもないのに、『どうぞ』と叫ぶデイブ平尾に『僕だけに』と柔らかく応じていい。マモル・マヌーの歌は残らないかもしれない。

 亡くなった人の映像も歌も残る時代。彼らを超える新しい歌が聞きたい。

 

やまんばは行く

やまんばは行く

 還暦を迎えた京子は白髪が増えて来たことを気にしていた。そろそろ染めなくてはと思いながら街を行く女性を眺めた。染めてる、染めてる、杖をついてやっと歩いているようなおばあちゃんも、パーマをかけて染めている。黒、茶色、金、時に緑、紫。読んだ本の中で男が
「白髪を染めない女は頑固だ」
と言っていて、そこだけ記憶にある。
 そんな中、ふたりの女性が目に入った。二人とも真っ白な髪を伸ばしている。ひとりは後ろで結び、服装も地味、化粧も薄い。心の中で名付けておばば。もうひとりは白髪にパーマをかけてふわふわさせ、服装はピンクのワンピース、化粧はしっかり、口紅も濃い。街で出会うと京子はピンクレディと名付けた。個性的でいいと思った。決めた、染めずに行こう。

 京子はひとりで山へ行く。近くの高尾山、馬鹿にしてはいけない。ケーブルカーやリフトを使って手軽に登れるが、ルートは様々、京子が好きなのは、高尾駅から小仏行きのバス、日影というバス停で降りて、川を渡り北東尾根、小仏城山へ出るまで、人は少ない。景色や足元の花、でっかい朴の葉を眺めながら、自分のペースで登る。たまに追い越す人がいる。たいてい一人、京子より年上の男である。若い男に追い越されることがある。
「こんにちは、お先に」
と元気な声で挨拶、長い足で追い越していく。そんな時京子は山姥になる。『牛方とやまんば』の世界である。若い男は三十郎。荷物のさばも、引いていた牛も食ろうてしまった山姥は、真っ白な髪をを振り乱して、三十郎を追いかける。
「まてぇ」
京子の想像など知らぬ若者は、すぐに視界から消える。

 小仏峠の狸の置物、小仏城山の天狗を見て、山頂は通らずに稲荷山か,
6号路で下山する。京王線高尾山口には靴を洗う場所があり嬉しい。

 高尾駅から蛇滝まで川沿いを行くこともある。彼岸花が咲き乱れるなか、黒アゲハが乱舞していた。まむし草を見つけ、背丈ほどある、ししうどが、白い小花を広げている群生も見た。蛇滝で修行をしている光景を柵越しに見たこともある。
 この道では英語の地図を持った若い美人に会った。彼女もひとり、急坂で私の足元を気にしてくれた。
 蛇滝へ下りるとき、カサカサという音、蛇が草に潜っていった。裏高尾のまき道で、団体さんがいて、何やら見ている。近寄ると、とぐろを巻いた蛇、
「毒蛇だから触らないで」
と、リーダーらしき男性に言われた。縞模様の蛇だった。

 土の道はいい、地球が呼吸をしている。

 北海道の冬、京子は娘のお産で来ている。無事に生まれて、退院してきたので、散歩に出た。車社会、雪道を歩く人は少ない。車で来て、犬の散歩をする人がいる。気兼ねなく、広い場所が好きなのだろう。もうひとり、広井さんのおばあちゃん、畑作で頑張ってきて、隠居、毎日杖をついて散歩している。北海道の女性は働き者、幾つになっても体を動かしている。

 雪道にきつねの足跡がある。たどっていくと、畑に入る。足をつっこむと、ずぶずぶと膝まで、あわてて足を抜く。スノーブーツでは入れない。翌日膝まである長靴をはいて挑戦、きつねの足跡を長靴が消していく。大きな足跡も、鹿だ。林の向こうに続いている。鹿の足跡をたどる。そして山姥になる。

 山の奥の掘立小屋、いろりの前で火を見ている。きつねや鹿が食べかすを見つけようと、周りをうろつく。山の音を聞き続けると、鳥や獣とも通じ合える。道に迷い、行き暮れた人が来る。年寄りは仲間だ。きのこ汁やどぶろくを差し出す。若い男が来る。山姥は包丁を研ぐ。